大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

山形家庭裁判所 昭和57年(家)79号 審判

申述人 小川キミ子 外一名

主文

本件申立をいずれも却下する。

理由

一  申立人らの本件申立の要旨は次のとおりである。すなわち、申立人キミ子は被相続人小川栄一の妻であり、申立人由美子はその養女(申立人キミ子の実子)であるところ、被相続人は昭和五六年一〇月二五日に死亡した。申立人らは同日被相続人の死亡の事実と申立人らが相続人として相続権を取得したということを知つた。従つて法定の相続放棄の熟慮期間の始期を右同日とすると、その終期は昭和五七年一月二五日になるが、申立人らは同年同月二七日に本件申述の申立をした。これは、申立人らが被相続人の死亡当時現に申立人らの居住していた家屋とその敷地など積極財産である遺産の存在は知つていたが、消極財産である債務の存在を知らず、被相続人の死亡から一週間を経たあたりから少しずつそれを知りはじめ約一ヶ月を経た昭和五六年一二月二五日ごろようやく被相続人の債務の全容を知るにいたつたので、結局その時点を熟慮期間の起算日と考えたためである。なお、被相続人の債務の全容が判明した後、申立人らは被相続人の先妻の子小川吉則(昭三一生)や被相続人の弟小川栄三らと協議をした結果、被相続人の土地建物を処分して債務を弁済することとして、そのためには相続人全員が相続放棄するのは好ましくないので、長男である吉則だけが放棄せず被相続人の債務弁済にあたり、他の相続人は相続放棄するということで合意ができ、申立人らは相続放棄の手続を吉則と栄三に一任した。ところが、吉則と栄三は、右合意に反し、吉則とその妹河野良子(被相続人の先妻の子)の相続放棄の手続をなし、申立人らについてはその手続をしなかつた。そのことを申立人らは知らずにいたが、昭和五七年一月二七日になつてはじめてこれに気づき、急拠本件申立をするにいたつた。本件においては以上のような事情も存するので、特に申立人らの申述を受理されたく本申立に及ぶ。

二  審理の結果申立人らの主張事実のうち申立人らが被相続人の死亡当時被相続人の債務の存在を知らなかつたという点を除くその余の点についてはこれを認めることができ、さらに次の事実を認める。被相続人は○○○○工業株式会社と称する小規模な上下水道配管設備業を営んでいたものであつたが、身体が弱くて必ずしも充分に稼働できなかつたので経営は思わしくなく、特に同人が肺がんのため入院するにいたつた昭和五六年二月からは、会社の経営不振は大きくなつていつた。申立人らと吉則とは被相続人と同居しており、被相続人はたしかに会社のことは妻や養女である申立人らにはくわしくは話していなかつたが、経営が不振であるということは申立人らは知つていた。被相続人が死亡し、その葬儀が終つて一週間ぐらい経た後、被相続人の弟の栄三と吉則から申立人らは、被相続人が○○銀行○○支店から四〇〇万円、同○支店から一三〇万円など数ヶ所の金融機関から借財をしていたこと、さらにそれに続き国税や電話料金、社会保険料などの滞納のあること、その他にサラ金からも借金のあるらしいことなどを聞かされ、はじめて被相続人の債務を具体的に知るにいたつた。吉則、栄三と申立人らとは必ずしもしつくりいつていなかつたので、吉則と栄三がわざと申立人らを騙してその相続放棄手続をしなかつたのではないかと思われるふしがある。しかし、吉則と栄三は現実には一応申立人らに迷惑をかけないために被相続人の債務弁済に奔走しており、申立人キミ子としては吉則らと協議した際最後まで積極財産と消極財産のどちらが多いかを明確につかめず、相続放棄をすることをためらつていたが、吉則と栄三が約束を違えて吉則と良子についてのみ相続放棄をすることとして、申立人らの相続放棄手続をしなかつたことが判明したので、はじめて自らも相続放棄する意を固めたものであつた。以上の事実が認められる。

三  民法九一五条一項は相続を放棄する時は「自己のため相続の開始があつたことを知つた時」から三ヶ月以内にすべきことを規定し、九一九条一項は右期間内に相続放棄をしない時は単純承認をしたものとみなされると規定している。これは、相続人の利益と相続債権者の利益とを調和させた趣旨の除斥期間であると解されている。この「自己のため相続の開始があつたことを知つたとき」とは、被相続人が死亡したことと自己がその相続人であり相続権を取得したことを知つた時と解されているのが一般であるが、この場合「相続権を取得したことを知つた」ということに「遺産の存在を知つた」という意味を含めるか否かが問題である。たしかに、当初判明していなかつた債務が後になつて思いがけず判明して、その時は既に相続開始後三ヶ月を過ぎていたとか、或はその期間内であつても、充分熟慮する間がなく、右期間を経過してしまい、相続人が相続放棄することができないというのでは相続人に酷であろう。従つて「遺産の存在を知つた」ということも「相続権の取得を知つた」という意味に含めて考えるべきものであろう。しかし、遺産(債務)の存在を知らなかつた場合でも、そのことについて過失がある場合にはその認識し得た時点において遺産の存在を知つたことと同一評価すべきである。何故ならば、この点で相続債権者と相続人との保護の調和点を見い出すことができるからである。過失の認定はケースバイケースで諸般の事情を考慮して決すべきであるが、全く積極財産がないという場合でたまたま意外なところからある債務が判明したような場合には過失の認定は困難であろうが、積極財産の存在が当初から判明していたとか、しかも被相続人が事業を営んでいて、相続人がこれと同居していたような場合には債務の存在を当然知りうる立場にいたものとして過失の認定は容易であろう。これを本件についてみるに、申立人キミ子は被相続人の妻であり、申立人由美子も養女ではあるが既に成人であつて、いずれも被相続人と同居していた者である。昨今中小企業主が会社のための債務を個人名義で負担していることはもはや常識であり、余程経営が順調に行つていればいざ知らず、経営が不振の場合は勿論、おおむね普通の状態にある場合でも企業主はなにがしの債務を負担しているのがむしろ常態である。従つて、本件の被相続人の場合でも、少なくとも妻である申立人キミ子については被相続人の債務のあることをその死亡当時既に知つていたものと認定して差し支えなく、また申立人由美子についても仮にそれを知らなかつたとしてもそのことについて過失があるとみるのが相当である。このように見ると、申立人らについての熟慮期間の始期は被相続人の死亡日である昭和五六年一〇月二五日(初日は算入しない)とするのが相当である。そうすればその終期は昭和五七年一月二五日となる。

次に、申立人らが吉則と栄三に相続放棄手続を依頼したのに結局それが果されなかつたという事情についてであるが、たしかに前叙の認定事実にてらすと、申立人らに気の毒なことになつたということは理解できるが、除斥期間というものは、大規模な天災その他の事情から裁判所の事務が停止したとかいう不可抗力のため相続放棄手続が妨害された場合には例外的に期間の延長は認められるとしても、相続債権者の保護との調和を考えれば、本件のような事情だけで熟慮期間の延長は(仮に本件のようにわずか二日であつても)認められないといわなければならない。

四  以上の次第であるから、本件の相続放棄の熟慮期間の終期は昭和五七年一月二五日であるからその後である同年同月二七日になされた申立人らの本件申述の申立は既に法定の期間経過後になされたものとして、不適法であるから、これを受理しないこととして、主文のとおり審判する。

(家事審判官 穴澤成巳)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例